棒

近松は越前生まれ?

棒

『京摂戯作者考』(『続燕石十種・第一巻』大正16年1月、広谷国書刊行会による)
《一説》長州萩の産にして、同藩の臣杉森某の男なり、名は信盛俗称平馬といふ、平安堂、巣林子、不移山人等の数号あり、卯花園漫録には越前の人とす、恐らくは誤りならんか、少して肥前唐津近松寺に遊学し、後京師に登り、或堂上方に仕へ奉りて、爵六位を賜ふ、【錦小路頼庸朝臣の五五記に、一條禅閤に仕るよしあり、又江戸柳島法性寺境内に建たる近松翁が事迹を記したる碑石にも、一條禅閤兼良公に仕るよしを記しあれとも、兼良公は文明中薨去ありて、近松より二百余年の昔なり、もしくは此公に仕へし人の子孫にやあらんいぶかし、尚柳島の碑文を先に出す、併せ考ふべし、】元禄の頃仕官を辞て、退て浪人し、近松門左衛門と名乗り、歌舞伎芝居都万太夫が座の狂言の作をなし、又宇治加賀掾、井上播磨掾等が為に浄瑠璃を作る、其後元禄三年庚午正月、京都より浪花え下り、竹本筑後掾が為に浄瑠璃を数多著述し、其名を世上に轟かせり、元より和漢の書籍を学び、博識にしてしかもよく時世の人情を察し、下情を穿がちて数百番の浄瑠璃を作れり、……享保九年辰十一月廿一日、【種員曰、西澤一風子が外題年鑑には、平安堂の物故同年同月廿二日とあり、】七十二歳にて身まかりぬ、大坂八丁目寺町法妙寺に葬むる、辞世の文左に誌す、【戒号は世に有し時設置たる也といふ】
【   】は割注を、/は改行を、それぞれ表す。
戻る

棒

近松研究所のホームページに(戻る)

園田学園女子大のホームページに(戻る)