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近松は越前生まれ?

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『羇旅漫録』(『日本随筆大成(新装版)・第一期1』昭和50年3月、吉川弘文館による)
近松門左衛門は。越前の産とも又三州の産ともいへり。今の並木正三が戯材録に云。肥前近松寺の僧の話に云。近松門左衛門は。元肥前唐津近松禅寺の小僧なり。古澗と号す。積学に依て住僧となり。義門と改む。徒弟あまたありしが。所詮一寺の主となりては、衆生化度の利益うすしと大悟し。遂に行脚に出ぬ。そのころの肉縁の舎弟。岡本一抱子といふ儒医。京にありければこれに寄宿し、還俗して堂上家に奉公し、有職の事も大かた記臆せり。後浪人して京都浄瑠理芝居宇治加賀掾井上播磨掾岡本文弥角太夫抔の浄瑠理狂言を著述せしが、そのうち竹本義太夫にたのまれ、出世景清といふ新戯文(ゼウルリ)を書り。是レ近松が義太夫本戯作のはじめなり。是よりして数十部の作あり。すべて近松が作は、勧善懲悪をむねとし、衆生化度の方便を戯文中にこめたり。是近松還俗の日発願のおもむきによるかといへり。義太夫が作者となりて近松氏を名乗ること、近松寺にありしいにしへをわすれざる微意にや。【文選採要。】愚云。この説によれば、かの三井寺門前近松寺破戒の僧のうちなりといふ説はたがへるにや。二代め義太夫が墓は千日寺にあり。則国字を以て略伝をしるせり。文中に元祖義太夫が伝も少しのせたり。【末に出す。】元祖義太夫が墓はしる人なし。予正三を訪ふて近松が墓所を問ふに正三もしらず。久々智の広済寺の過去帳に戒名あるよしをかたれり。よて正三が耳底簿をかりてこれをうつす。久々智は神崎の隣村なり。/久々智広済寺過去帳/阿耨院穆矣日一具足居士 俗名近松門左衛門/享保九年甲辰十一月廿二日/阿耨院の法号は近松みづからつけおきし也そは辞世の詠草中に見ゆ
【   】は割注を、/は改行を、それぞれ表す。
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