前頁よりのつづき

都府楼(大宰府)跡をあとに南の広い道路を東に向かう。道路の南側には建物が並んでいるが 喫茶店が1店あるだけで、すっきりした景観になっている。喫茶店でお昼の定食を食べて出発する。 道路の北側(大宰府側)に「月山東地区官衙跡」がある。
大宰府前道路 月山東地区官衙跡 仏心寺
大宰府には記録から「政所(まんどころ)」「蔵司(くらつかさ)」等の実務を行う官衙(役所)が18あった ことが知られている。この月山東地区は東西112m南北71mの塀で囲まれた中に是まで9棟の柱跡が 確認されている。8世紀初めから10世紀終わり頃まで3期にわたっている。官衙跡の東端の奥に仏心寺 が見えている。
学校院跡 道標(不鮮明) 戒壇院石標
戒壇院門 不許葷酒の石標 戒壇院/b>
太宰府天満宮へ向かう道路の南側は住宅が建っているが、北側(都府楼跡に続く東側)に広い空き地がある。 「学校院跡」という立札が立っている。754年吉備真備が建てた、大宰府の官吏や郡司の子弟を教育した 学校である。学校院あとを過ぎると、観世音寺の敷地内の入る。奈良時代に建立された、西国の僧尼に 戒を授けることのでき多道場であるが、今は、観世音寺とはなれ博多の聖福寺の末寺である。
学校院 西国の役人を養成する機関。太宰府政庁の東側に小字名「学業」というところから、学校院があったと 考えられている。学校院では、博士を教官として中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に政治、医術、 算術、文学など役人として必要なことを学んだ。8世紀初めに創立されたが、平安末期には閉鎖され、 その跡も明確でない。(説明板より)
戒壇院 奈良時代に奈良の東大寺、下野の薬師寺とならんで天下三戒壇の一つとして観世音寺に建立された。 本尊の木造廬舎那仏坐像は藤原後期の作である。
西戒壇院門 梵鐘 延命地蔵 菩提樹
西戒壇院の庭にある菩提樹は鑑真和上が中国から調達したと伝えられている。同庭にある 延命地蔵は1698の建立されたものである。
観世音寺 観世音寺梵鐘(日本最古)
観世音寺は709年、天智天皇が御母斉明天皇の冥福を祈るために造営を始めたいう由来があり、 745年の僧玄ム(げんぼう)が筑紫に派遣され造営にあたったと言われる。746年に完成したものの、 その後、火災や大風にあい、後の江戸時代に黒田j藩主が再建したと言われる。築地塀で囲まれた 内側に講堂、金堂、五重塔、鐘楼などがは配置されていた。
観世音寺絵図 観世音寺五重塔心礎 観世音寺南大門跡/b>
五重塔の心礎は創建当時のもの。梵鐘(国宝)は無名だが698年(文武天皇二年)の銘をもつ 京都妙心寺の梵鐘と同じく筑前国糟屋郡屋多々良で鋳造された日本最古の梵鐘である。
清水山善門院観世音寺
百済を救援するために大和の都から遠征した斉明天皇は筑紫の 朝倉橘広庭宮で没した。斉明天皇7年(661)のことである。天皇に随行した皇太子の中大皇子 (後の天智天皇)が女帝のぼだいを弔うために発願して建立した寺である。造営事業は難航を きわめたが、天平18年(746)にようやく完成し、大宰府官内の全ての寺(国分寺、国分尼寺を 含む)統括する権利を阿他与えられた。(「太宰府天満宮の謎」高野澄著より)
神護山光明寺 光明寺山門 仏光石庭
観世音寺から東へ御笠川を渡り、西鉄太宰府線の手前で北に上がり、太宰府駅手前、歴史資料館 へ向かう道を西鉄線を横切る。そのまま、東へ行けば九州国立博物館(当時は建設中)に行き着くが 途中で左折して天満宮への道をとる。途中に、天満宮の結縁寺神護山光明寺に寄る。臨済宗東福寺派 に属し、鎌倉中期約700年前菅家出生の鉄牛圓心和尚が建立された寺で、七・五・三の15石で光の字に 配石された九州唯一の石庭が見られる。
天満宮近くの梅 天満宮参道
3月10日だったが、この年は丁度梅が見ごろであった。平日なので、参詣者はまばらである。 参道に来ると、名物「梅が枝餅」の看板が目に付くみやげ物屋がならんでいる。愈々、太宰府天満宮に 到着である。
次頁(太宰府天満宮)へ