平成17年1月18日に昔の大名往還道の西宮〜下関、すなわち旧山陽道を歩き終えた。 目標は「大宰府まで」としていたので、九州へ渡る(今は鉄道だからトンネルをくぐる)ことに なった。旧山陽道は殆どJR山陽本線を利用出来たので、岡山県以西はJRの割安切符である 「青春18切符」を使用した。普通、快速、新快速を乗り継いでの旅である。最長乗車時間は下関〜 三宮の9時間だった。3日の行程の中で、まともに使えるのは、真ん中の1日だけである。そのために 3年7ヶ月の月日を要してしまった。今度は九州である。小倉までは新幹線を使わざるをえない。 電車賃が大変である。
三宮〜博多往復3万円くらいか。この運賃が肩に重くのしかかる。しかし、救いの神が現れた。 山陽新幹線開業30周年特別割引切符が丁度発売されることになった。3日間山陽新幹線乗り放題 16000円(ジパング会員12000円)である。これだ!しかも、3日間。願ってもないことである。ジパング 会員(年会費3640円)と会員外では4000円の差が。このために、わざわざジパング会員になった。 年会費を払っても360円のおつりが来る。博多まで往復12000円(片道6000円しかも途中下車可能。 さらに「のぞみ」に乗れる。(普通だとジパングで「のぞみ」に乗れない。)このときに、九州内であっても 新幹線はJR西日本の路線であることを知った。九州は新幹線を除いて、JR九州の路線である。 後で、このことが思わぬトラブルになろうとはこのときは思いもしなかった。
30周年記念切符は3日間単位で1週間前までに購入というシステムだったのが、完全に理解できなくて 2回目の時は、2日間しか(3日目が仕事だったので)使用しなかった。3回目は発売期間外だったので ジパングを利用することにした。JR運賃には往復割引(片道601km以上の場合)がある。10%である。 大きい。これを利用する手はないと考える。三宮〜博多間は589km。これはだめだ。距離を調べる。 新大阪まで伸ばす。かろうじて、603kmと601kmを超える。しかも特急料金は小倉までも、博多までも 一緒である。ジパングの割引がこれにプラスされる。往復10%+ジパング30%合計40%は凄い。通用期間 は10日間と拡大される。3回目の3日間はこの方法でコースを消化。大里〜大宰府を8日間で踏破出来た。 3回目の木屋瀬〜赤間宿〜青柳宿〜箱崎宮はJR路線から大きく外れ、西鉄バスを利用するのだが これがまた大変であった。順番から行けば2回目のコースであるが、最後になったのはそのせいである。 このコースのところを見ていただければ分かると思います。それでは、大里(だいり)から大宰府向けて 九州路のスタートである。
古代において、九州は筑紫又は西海道と呼ばれた。筑紫は筑前、筑後、豊前、豊後、肥後、肥前、 日向の七国と壱岐、対馬の二島とされた。しかし、和銅二年(709)六月以前に薩摩、多禰(たね)の 二国が置かれ、さらに同六年(713)四月に大隈(おおすみ)国がおかれて九国三島となった。 しかい、その後、天長元年(824)九月に多禰国を廃して大隈国に編入したため九国二島となり、以後 明治にいたった。九州とは、この九国の「国」と同じ字義の「州」の字に置き換えたものにすぎない。 (「中世の九州」外山幹夫著教育社歴史新書<日本史>54巻昭和53年6月刊より転載)
JR小森江駅 JR門司港線 大川の川口
長崎街道は久留米藩の屋敷があった大川の川口から始まるのである。ここに大里宿が西に向かって 直線で五町五十二間(約646m)あり、蔵屋敷、本陣、脇本陣、人馬継所などが並んでいた。大川の 川口には久留米藩の屋敷(寛永年代小倉藩から舟入地として借りていた)が江戸末期まで存在していた。 門司〜小倉〜八幡は明治以降工業地帯だったが、最近はその影が薄れ、現在工場等は撤去され、再開発 に向けて、整地が進んでおり、駄々広い土地がJR門司・小倉間に目に付くだけである。直線道路も寸断され ており、かっての宿場町の面影は全くない。小森江駅と門司駅の間に昔の面影が散見されるだけである。
大里本町 西生寺 判行寺跡石碑
本陣は当初西生寺(現在の位置より西にあった)を用いたが寛文年間(1661〜1731)頃同寺を移転させ その跡地に本陣を建てた。西生寺(さいしょうじ)は柳浦山西生寺(りゅうほざんさいしょうじ)といい、泰正 二年建立され1866年の豊長戦争で焼失、明治16年に再建されたもの。当時はキリシタン禁制の江戸時代 だったので企救郡の判行寺(踏絵寺)になっていた。ここはもと細川家小倉藩時代二代藩主細川忠利の 浜御殿(お茶屋)のあったところであるが、当山第12世心空宝伝西堂の代(1670年代頃)に小笠原二代 藩主忠雄の命により八坂神社(祇園社)前にあったてらをここに移し、その跡地に本陣が置かれたといわれる。
大里村庄屋屋敷跡 レンガ倉庫 大里本町 大里本陣跡
大里本町は段々昔の町の様子が無くなりつつあり、レンガ倉庫などが目立つ。倉庫の横に庄屋屋敷跡とか 本陣跡の標石が建てられている。探すのに苦労する。大里本町は関門海峡に面している。団地の傍に海神 を祀った住吉神社がある。対馬、壱岐、下関、福岡等にもある。朝鮮へ渡る海路の要衝に当たるわけで、 住吉神社が大陸航路の守護神あったことを如実に示している。境内に文化二年の灯篭があるかと思えば、 団地の傍なのでSL(C57)がその雄姿を曝している。その横に興玉神や猿多彦大神が祀られている。 関門海峡には吉宗の象を運んだ流れの速い「与治兵衛の瀬」が控えている。
与治兵衛の瀬

天昇20年(1592)秋、朝鮮出兵の指揮を取るため、肥前名護屋城にいた豊臣秀吉は、母危篤の知らせに 大急ぎで帰坂することになった。小倉藩・細川家船奉行明石与治兵衛の指揮する御座船でこの海峡を渡ったが 大里沖の岩礁に船が乗り上げてしまい遭難した。秀吉は毛利秀元に助けられて事なきを得たが、与治兵衛は 責任を取り、大里の浜で切腹した。この与治兵衛の瀬は「死の瀬」と呼ばれ、船頭たちに恐れられたという。

大里村

北九州市門司区。もとは内裏,内理、大裏、大理と記していたが、延享元年(1744)宇佐香椎宮奉幣使下向 の際、京都所司代牧野貞通より小倉藩に内裏村という表記について字面尋があったため小倉藩の命により大里村 という表記にしたと言われる。大裏は安徳天皇の在所の地名からつけられたとも言われている。

住吉神社 文化二年の灯篭 SLC57 住吉神社内猿田彦碑
金森稲荷 興玉神 番所跡 佛願寺
旧大里宿の町並みの切れるところに蒸気機関車「貴婦人(C57も愛称)」がる住吉神社。となりは 金森稲荷、さらに進めば 興玉神(こうぎょくしん)の大きな石碑が目にはいる。昔から玉(魂)を起こす 神として信仰されている。昔、この通りに、本土への渡航にあたり、船の出入り、人馬の切手改め、抜き荷 の取締りを行う役人がおった御番所があったのだが、今は跡地を示す石柱が建物の隅に立てられている だけである。さらに西に進むと、佛願寺がある。当初は梅谷山(現在は柳谷山)と称した。開基は常称院 釈教心大欲徳、慶長年代に創建、慶応二年七月長倉戦争で焼失、明治17年意再建された。
大里宿の直線道路 人馬継所跡 一里塚跡碑 大里宿碑
真っ直ぐな道が続くのだが、土地が整備されて新しい工場、倉庫が点在するのが目立ち、昔の姿を 示すものは、建物跡があったと言う石柱のみである。レンガ造りの倉庫の角にある「大里宿跡」の石柱を 探すのに苦労する。「大里宿跡」から西はJR門司機関区の車庫があり旧道は関門海峡よりに進むことになる。
整備が進む大里町 秋月街道追分(推定) 赤坂海岸付近に残る旧街道 JR廃線あと
海岸べりを歩くので関門海峡をはさんで対岸の彦島(下関市)がすぐそこに見える。 広い舗装道路が縦横に走る。旧街道は跡形もない。村中川を渡り,秋月街道追分(分岐)と される所から、又昔の街道が残るところを歩く。JR廃線跡が見られる。旧道は僅かで、再び 海岸線の広い道路に出る。
閻魔堂 庄屋(岩松助左衛門)跡 西顕寺 貴船神社
長浜町で再び旧道に。このあたり、途切れ途切れで旧道が姿を現す。JRの線路の変更と拡張により 旧道はずたずたに切られている。昭和前半までは工業地帯として繁栄したところだから仕方がない。 年2回の祭日に江戸時代の絵師村田応成作といわれる「地獄極楽絵図」が開帳される閻魔堂や貴船神社、 岩松助左衛門(庄屋)宅跡、小倉港にでる門司口門付近に西顕寺がある。外敵の侵入時に砦の役目をする 寺が並んでいたのであるが、光清寺、徳蓮寺、峰高寺は他所に移転し、現在この西顕寺だけが残っている ということである。
門司口門跡(海側) 門司口門跡(街側)
門司口橋は昔のままの位置で、門は橋を渡ってやや右にあった。いまは新幹線の下になっている。 (写真上右)門は南北向きで常に開門番所には20人が勤めていた。門内には砦の役目の寺が 並んでいたが、現在移転せずに残っているのは、先ほど述べた西顕寺でけである。筑前口にも 防衛上寺院を配していた。
「此処は九州の咽喉なり。川口に番所ありて出入り舟の人数、切手改む。川に入って一町ばかり行けば 橋あり、橋を渡れば見付番所あり、これより内には城門にいたる。天守高々と見ゆ、いと賑わしい城下なり」 と昔の書物にある。小倉の駅前通に入っていく。
小倉〜八幡へ