新幹線下の門司口門をくぐり、小倉の街に入る。小倉駅に通じるバス通りの大きな交差点の 角にあるショッピングゾーンの飲食店に入って、昼食にする。ショッピングゾーンの中心に 円形型の広場があり、昼時なので地元のミュージックグループが演奏していたので、少し耳を かたむけて道路に出たところ、入って来たところと違うところに出る。円形だったので、元の場所に 出なかったのである。途端に、方角が分からなくなりあわてる。道端に、止まっていたタクシーの運転手に 小倉駅への方角を教えてもらう。初めてのところでは、良くあることである。入るときに、入り口付近の 店を覚えておかなかったからである。
長崎街道は小倉港の川口のところでJR新幹線、在来線の下をくぐって、京町に入り小倉駅の南側を通り 今夜泊まるホテル(西鉄イン)のすぐ下を西に向かっているが、駅前の大手ショッピングビルの阻まれる。 小倉駅前から商店街を通り、常盤橋(ときわばし)の東詰にでる。商店街の通りと橋がつながらない。少し ずれている。
小倉駅前商店街 JR小倉駅
常盤橋は当時の姿を再現するために木材を使用して立て替えられている。享保13年(1727)6月13日 将軍吉宗に献上するため清国船が運んできた象を陸路江戸まで連れて行くときに通った橋である。昨年 (2004)この橋の西詰め茶店が出来て、象の焼印のついた饅頭を売り出したところ、評判よくお客が押しかける 茶店になったと、店に来ていた男の人(長崎街道小倉城下町の会編集委員長)と女性店主(小倉城下町の会会員)が教えてくれた。 ついでに、小倉県庁跡についても教わる。聞かないと通り過ぎてしまっているところである。
常盤橋 常盤橋東詰広告塔 常盤橋袂船止跡 初代常盤橋基礎石柱
茶店前で編集委員長と店主 長崎街道家並み 県庁跡石碑 県庁だった建物の一部
小倉 は紫川のデルタの上につくられた町である。関が原戦後に入封した 細川忠興が勝山城をきづいて町づくりを始め、寛永年間、小笠原氏の代になり 町の建設が完成した。紫川を挟んで東町と西町に分け、河口の常盤橋と南方の豊後橋で 両町を結んだ。町のまわりは紫川の流れを引いた堀で囲い、幕末には海岸線すべてに塀を 築いた。
常盤橋 は江戸時代の始め頃、小倉の城下町の東曲輪(主として町人が生活していた地域)と西曲輪 (主として武士が生活していた地域)を結ぶ重要な橋として架けられ、当初は大橋として呼ばれていた。 この橋の西勢溜(にしせだまり)が長崎街道の起点となっていたため、橋の周辺は幕府役人や旅人の 宿が立ち並んで賑わっていた。ドイツ人シーボルトはこの橋を銅版画で紹介している。九州における 日本橋となっていた。
紫川にかかる常盤橋(ときわばし)を渡って、元小倉県庁跡の横を西に進んだ 長崎街道は、JR西小倉駅を過ぎると市街地の中を南西へと向きを変える。 JR南小倉の北の方を横切って、九州歯科大学がある清水でやや西に向きを変える。 水掛地蔵尊がある。さらに市街地の、茶屋町、昭和町、東鉄町を抜け 高見町にある荒生田一里塚の横を通る。そこから、少し進んだところに新しくなった国境石がある。 元々あった国境石(小倉藩と福岡藩によって建てられた石柱)は、現在はJR八幡駅南にある市立図書館の庭に 移されて、保存されている。一部破損している石柱で、 現在13基残っている。図書館の所から向きをかえてJRの線路近くまで旧街道は北西に進む。
水掛地蔵 西筑前国境石 荒生田一里塚
「従是東豊前国」の石柱 「従是西筑前国」の石柱
長崎街道の南側、紫川のほとりに位置する小倉城だが、城の北側に非常にモダンな建物(リバーウォーク 九州(北九州芸術劇場がある))があるため、南側からは城が見えない。街道が南に向って進むところから 東側に小倉城を見ることが出来る。城内に響灘の海底から引き上げられた珪化木(けいかぼく)(木の幹が 地層にうづもれ化石に変わったもの)がある。今から4000万年前の木である。
小倉城天守閣 天守閣からの眺め 天守閣からの眺め
小倉城大手門跡 響灘の珪化木 昔の大砲と弾丸
小倉城 は戦国時代(1569年)毛利氏が現在の地に城を築いたことに始まる。その後、関が原合戦の功労で入国した 細川忠興によって、本格的に築城が始まり、約7年の歳月の後完成した。しかし、1837年城内の火災によって 全焼。2年後、天守閣を除き再建。第2次大戦後の昭和34年(1959)市民の熱望により天守閣が再建された。 天守閣は4階と5階の間の屋根のひさしがなく、5階が4階より大きくなっているという「唐造りの天守」と言われる 構造である。城の石垣は切石をつかわない野面積になっている。城の付近に松本清朝記念館や鴎外橋(水鳥の橋) がある。
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