黒崎の松並木を過ぎて国道200号線に出る前に長崎街道保存会の人たちが建てた新しい道標 (なぜか「古街道」になっているー写真上)がある。200号線に合流するところは小鷺田である。都市高速道路に 接続する引野インターまでは交通量の激しい道路を行く。引野インターを過ぎるとやっと脇道に入るが 上の原で再び211号線(引野インターより南は211号線になる)に戻る。(写真下)
凉天満宮 は菅原道真公をお祀りしている「菅原神社」である。境内にあった大松の下で旅人が休息したので この松は「夢想の松」「涼み松」と呼ばれいつしか神社が「涼天満宮」と呼ばれるようになった。今では 松ノ木も枯れてなくなっているが、江戸時代、正徳年間(1711〜1716)のある時熊部新次郎と言う人 が所用で京都へ行く途中此処で休息してお金の入った荷物を松にかけたまま立ち去ってしまいました。 帰途、立ち寄ると荷物がそのまま残っていたので、神のおかげと感謝し石の鳥居を寄進したと言うことで これからこの松を「かね懸けの松」とも呼ばれるようになった。(北九州市教育委員会説明より)
やから様 平家一族が下関壇ノ浦で滅ぶ前の平家の女官にまつわる悲話が伝わる祠である。源氏が九州大宰府、 壱岐、対馬から平家一門を掃討しているとき(「平家物語」巻八に述べられている頃(寿永二年?)かと 思われる)、8月19日夜久(上津役(こうじゃく))を通りかかった二人ずれの落人、一人は気品高く、 一人は乳母らしく幼児を抱いていたが、疲れ果てて今一歩が出来ず道脇の谷間に降りて野宿をした。 この所に平家の落人を追って郎党50騎を従えて通りかかった豊後国の久住の伊藤兵衛尉の耳に 幼児の泣き声が聞こえ部下にこの二人の女と幼児を探し出し討ち取らんとした時、女、夜泣きの子を持つ 母の苦労を救わんと短刀を手にしてこの世を去った。夜久の人達がこの名の知れない哀れな平家の女主の ために冥福を祈って建てたのが「やから様」である。この後、夜泣きする幼児の願を掛けと治ると言い伝えら れている。(説明板より)
211号線小嶺台の信号手前右折 銀杏屋への登り 阿弥陀如来堂
国道200号線は引野インターで右に曲がり、南下する道路は211号線になる。 旧街道は国道より少し東に寄った狭い道である。1kmほど南へ下がると211号線に合流する。 211号線出でたところに凉天満宮がある。上の原(うえのはる)と言うところである。今は、山が削り取られて 広い道も通っているが、昔は山のなかでこの付近から石坂にかけて山道を上がり下りをしたと言う難所で あったらしい。それゆえ、此処で休息したり、道脇の谷間で野宿した(やから様)と言われている。現在では なんということはない場所である。此処から少し南へ下がった上津役(こうじゃく)に小さい祠がある。源平史跡 やから様である。丁度、通りかかった地元の女性に地名の読み方ややから様についての話を聞くことが出来た。
立場茶屋銀杏屋 銀杏屋内部
石坂までの道は国道211号線だったり、横道だったりするが昔の地形ではないので、現代の長崎街道である。 ずっと舗装された道である。やから様から2.5km南へ、小嶺台に着く。道路が右へ大きくカーブして団地の すぐ横を通る。途中で右折して銀杏屋へ行くのだが、道が切り通しになって団地が目に入らないので、気がついた 時は団地の南端まで来ていた。おかしいと気づいたときに、野球帰りの男性にあったので、「たてばじやいちょうや」 はどこですかと聞くと、「いちょうやしき」なら、坂を元に戻り信号を行き過ぎてすぐに左折(反対からなら右折) と教えてもらう。やっとのことで差かを上がり銀杏屋へ向かう。銀杏屋の手前に阿弥陀如来を祀った堂宇があった のでカメラに収め、拝んでいると通りかかったお婆さんが、「近頃は此処にお参りする人がすくなく、お堂の手入れも 行き届かなくて・・・」と説明してくれた。
銀杏屋上段の間 土天井 銀杏屋の大銀杏
北九州指定文化財になっている立場茶屋銀杏屋(地元の人は「銀杏屋敷」と呼ぶ)は 江戸時代に九州で唯一の脇街道であった長崎街道の黒崎宿と木屋瀬宿の間の立場茶屋として、参勤交代の 諸大名を始め、長崎奉行、巡検使などが休息したところである。保存修復された主屋は、天保7年(1836)10月 2日の火災による焼失後に建築されたもので、庭にある銀杏の大木に今もなお、火災の痕跡をとどめている。 銀杏屋は長崎街道に残る、「上段の間」を持つ唯一の立場茶屋の遺構で建築年次が明確な質の高い近世の 町屋建築なのである。天井は竹の上に藁をおきその上に30センチほどの土を塗っているという珍しいもの。 なんのためか分かっていないといわれる。
ひな祭りの手玉 ひな壇 ひな人形
石坂への道 段々急坂になる 急坂の石坂
三月三日(ひな祭り)は過ぎていたが、お雛様や民芸品の数々を展示していた。有名なので 近郷から見に来ている人が多かった。昔から受け継がれてきたひな壇やお雛様を飾ってあって 非常に立派なものであった。立場茶屋銀杏屋から南へ少し行くとみちが下りになり、やがて難所の 急坂、石坂に上につく。現在は手すりがつき、コンクリートの石段であるが、岩盤の露出する急坂であったので 長崎から江戸に陸送されつ将軍様献上の象も滑りながら登ったという。(「象の旅」石坂昌三著新潮社刊 1992・5・15発行より)石坂を降りたところに、興玉神の石碑があった。近くを流れる小川にかかる橋の 「石坂橋」と言う石柱が草の中に残されていた。石坂を下りて、なおも、南へ下がると国道211号線にでる。 「馬場山東」というところである。街道は此処から、国道を離れ、南西方向へ木屋瀬宿目指して進むのだが 九州2日目は此処までで切り上げる。
石坂の急坂(下から) 興玉神 石坂橋石柱
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