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現在、この歴史的構築物は国道によって分断されている。分断については色々議論があった ようである。国道で分断された地点では、大提の断面図を見ることができる。 白村江(はくすきのえ)の敗戦(663)の翌年、唐。新羅軍の来襲から太宰府を防衛するために、 長さ1キロ、高さ10メートル基底の幅37メートル、頂上の幅4メートルの大土塁である。(国特別史跡)現代でも、 これだけの規模のものを作ろうとすれば、大変な動員と経費がかかると思われる。
白村江の敗戦 660年百済は唐・新羅の連合軍によって攻め滅ばされた。再起を期す百済は兵を上げ、日本に援軍を要請、 中大兄皇子はこれを承諾し、援軍を白村江に送り百済と連合して、唐・新羅連合軍と戦ったが、大敗をきっした。 天智天皇は唐・新羅連合軍の日本への来襲の備え、百済人の技術を用いて水城大提を構築した。
水城跡表示板 水城跡大堤石碑 水城跡(横から)
水城大提石碑の傍に東門があった。その礎石跡が石碑の傍、旧街道の所に残されている。 大提から南東に西鉄大牟田線沿いに下がると、西鉄「都府楼前」駅にでる。そのまま東に進めば 都府楼(太宰府)あとの南大門跡に出るのだが、太宰府が最終目的地なので、近辺の史跡を見ようと ここで寄り道のため旧街道を離れる。途中で左折して、筑前国分尼寺跡に向かう。
大提東門礎石 東門礎石 筑前国分尼寺への道
旧街道を南東に向かい国分寺前の標識があるT字路を左折して北東に向かうと左側に 道より高くなった畑が在る。国分尼寺跡である。今は、畑の中に礎石が一つあるのみで、 説明版が無ければ見逃してしまう所である。
筑前国分尼寺 天平13年(741)聖武天皇は鎮護国家、五穀豊穣を祈願するため諸国に国分尼寺建立を 命じた。尼寺は正式名称を「法華滅罪之寺」といい、尼僧10人と規定された。
筑前国分尼寺跡 筑前国分寺講堂跡(遠景) 筑前国文寺跡
国分尼寺あとからさらに北東に向かい途中で左折すると筑前国分寺の講堂があった場所に でる。創建当時の筑前国分寺は、約192m四方の寺域に金堂・七重塔・講堂などの建物が 整然と配置されていたが、律令制度の衰退とともに国分寺の役割も失われていき、建物も 荒廃していったと説明版に書かれていた。
筑前国分寺 奈良時代の中頃、天然痘や内乱などの社会不安が続いたため、天平13年(741)聖武天皇は 鎮護国家、五穀豊穣を祈願するため諸国に国分二寺(国分寺と尼寺)の建立を命じた。筑前国分寺は、太宰府政庁 の見晴らしの良いこの丘陵地に建てられた。創建についての記録は残っていないが、西海道の国分寺 が天平勝宝8年(756)には建てられた記録があるので、筑前国の国分寺もこの頃までには完成していたと 考えられる。(国分寺説明板より)
筑前国分跡 筑前国分寺跡(側面) 筑前国文寺跡石碑
国分寺講堂は昭和52年の発掘調査から建物遺構が推定されている。基壇上部が大きく崩平され、しかも基壇規模を 直接知りえないが、基壇南辺中央階段および北の階段のの中心を結んだ線を折り返すと約34メートルになり、また 階段の及び礎石根石に配された環状配石から推定すると、講堂は七間*四間に四面庇建物となる。礎石は大部分 紛失していて現在三箇所が配してある。
筑前国分寺の中には七重塔が建立されていた。天平13年の詔によれば、 その中に金の文字で書かれた金光明最勝王経一部が収められていたそうである。現在、10分の1に縮小した 精巧な模型が太宰府文化ふれあい館の屋外に展示されている。訪問した時は、改修中でパイプが組み立て られていた。塔が建立された当時は、柱が朱色、壁は白色、窓は緑色に塗られ、相輪や凰鐸は金色に輝いていた。 今回の改修は、建立当時の色を塗らず、今日まで建ち続けていたら、このような感じになったのではないかという 重いから古色な仕上げ にされている。
筑前国分寺(国分蜜寺) 八角灯篭 天満神社
国分寺跡には現在小さな寺が建てられている。国分蜜寺 と門の上の額に書かれている。国分蜜寺から南へ下がると奈良東大寺大仏殿前にあるものを モデルにした 八角灯篭のある辻に出る。すぐ傍に、 天満神社があり、西に進むと太宰府文化ふれあい館にたどり着く。
太宰府正殿鬼瓦 岩屋魔岩石塔レリーフ 国分寺七重塔復元模型 箱式石棺
太宰府文化ふれあい館へのスロープの壁にこの築で発掘された鬼瓦、 岩屋城跡にあった魔崖石塔のレリーフがはめ込まれている。 ふれあい館の中庭には10分の1に縮小復元された国分寺七重塔、 奥に箱式石棺などが展示されている。
岩屋魔崖石塔 四王寺山の中腹、岩屋城跡に岩盤の露出している部分があり、そこに宝塔や宝国印塔、梵字などが 多数刻まれている。この塔は、その中の宝塔で、四角部分に「貞和二年」(1346)の年号が見られる。 他の石塔も同じ頃に製作されたもので、南北朝時代にこの付近が先祖供養の場として利用されている ことが知られる。
箱式石棺 弥生時代から古墳時代に用いられたお墓の一つ、石を並べて小さな部屋をつくり、その中に遺体を 埋葬し、何枚かの石で蓋をした。九州から山陰地方に多く見られものである。ここに展示されているのは、 宮の本遺跡や成屋形遺跡にあったもので、埋葬され人物は強い権力をもった人達ではないかと 考えられている。 
御笠団印出土地 坂本八幡宮 猿田彦塚(八幡宮境内)
太宰府文化ふれあい館から南東に下ってくると坂本三丁目のある坂本八幡宮にでる。 その途中に、平安時代の軍隊の印判が発掘された土地がある。小さな林である。 701年の大宝令に定められた軍団(今の軍隊-兵士1000人)の印判が見つかった場所で、 当時、筑前には四軍団あったのである。坂本八幡宮を過ぎると梅林がり、太宰府(都府楼)の 北辺で、菅原道真がこのあたりに幽閉されていたのではないかと思われるあたりである。
太宰府政庁近くの梅林 梅林から政庁北辺へ 政庁跡北の建物跡
刈萱の関跡 蜂子地蔵菩薩 マンション前の三つの石碑 一の鳥居
水城跡から旧街道(太宰府往来)を南東に下ってくると、関屋という古代から中世にかけて 有名な刈萱の関跡がある。傍にある石(写真左)に説明が刻まれているが、消えかけている。「刈萱道心 石堂丸ゆかりの地。関所としての様子は分かっていないが、室町時代、この関で通行料を取って いたという文書が残っている」と読める。近くに、蜂子地蔵菩薩があるが、石堂丸が作った親子地蔵 菩薩なのではないかと思うのだが。西鉄「都府楼前」近くのマンションの玄関前に道標が三個並べら れている。「天満宮まで20***」「是よりひがしだざいふ参詣道」と刻まれている。すぐ傍に、太宰府 天満宮一の鳥居がそびえる。幕末の福岡藩主黒田斉溥(なりひろ)が寄進したものである。 愈々、太宰府到着である。西宮を出てから3年と9ヶ月目である。
太宰府政庁跡(都府楼跡)に平成17年(2005)3月10日(71歳の誕生日(3/8)の 2日後)ゴール。 良く頑張ったものである。九州に入るまでが、長かった。ライフワークと思って歩いた。殆どが、初めての 土地である。地図と案内書を手に、未知の土地を歩くのは大変である。脳の訓練には、役立ったと思う。 DSトレーニング(一年前はでていなかった)のいわゆる、「脳の若返りが実感できて嬉しいですね!」である。
太宰府跡に立つ記念碑 正殿復元図 礎石跡で語らう二人
太宰府の正殿(長官が政務をとるところ)跡には現在三つの記念碑が建つ。私が手をついているのが 中央の碑で明治4年(1871)7月御笠郡乙金村の高原善七郎がたてたもの。その左側は明治13年 (1880)御笠郡の人達の発起によるもの、右側の高いのは大正3年8月に建てられている。正殿は正面の幅 20メートル奥行14メートルもあった。復元図が説明板に載っている。東西両殿の礎石は整備されていて、 幼稚園児が遊んでいたり、若い二人の語らいの場になっている。
南大門復元図 近年の政庁跡俯瞰写真
太宰府の南端は国道筑紫野太宰府線が横切り、正面から南へ広い道路が走る。この道路に面して 南大門(政庁の南に設けられた正門で両側には東西に延びる築地塀が取り付き政庁全体を囲んでいた) があった。南大門は高さ18.2メートル正門五間(21m)奥行二間」(8.2m)2階建て、入母屋作りの屋根の 壮大な建物だった。南大門前は道路が走るだけで、観光地のような飲食店やみやげ物屋が立ち並ぶと いうことは無い。すっきりしている。それが、政庁跡の雰囲気を良くしているように思われる。
此処で、街道歩きは終着点を迎えるのであるが、最後の寄り道として菅原道真が祀られている 太宰府天満宮まであしを延ばすことにする。でないと、太宰府まで来た意味が無いからである。
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